2013年5月3日の御神籤



2012年は19回、うち大吉9回(確率分布でいくと0.50.79%)。まだ失恋から立ち直れず。ティミッドで死なないようにもがいていたからか、御稜威とご慈悲がいただけている。
2013年は10回、うち大吉1回…酷い一年だったと思う。結局一回しか大吉は出なかった。あまりおみくじを引きたい願望もなく、なにか義務で引いてた。もっと楽しんで引きたい。あの子にはもう会えない。ならば、おみくじ自体と結婚するかのように引い(略
2014年は19回 うち大吉5回…当該ページに書いてあるとおり。
2015年は結構良い年でおみくじを引くときも結構楽しんで引いている。現時点では5回引いて全部大吉




猿投温泉の近くの猿投神社
携帯を落として画像紛失
最悪としか言いようがない



『携帯を落とす』という警告はあっていつ落としても良いように閲覧履歴とかメール内容は削除してあったけど、最終的には落とすんだよな・・・最後に見たときは畑から帰る時でその時は「はっ!! まだあった…」とホッとした。
(なぜ画像がないのに内容がわかるの?と思うだろうけど、この携帯見ながらhpbには記録しておいたんですよ。どうせ無くすだろうから。データの移動だけはめんどくさくてやってなかったけど。)

タキオンが観測され、未来や過去は実在するのでは?と世界が一時盛り上がっていたけれど、ケーブル?に原因があったことが判明し観測機関から誤りだと公表された。物理学的には『現在』しか存在しない。ならば、その警告は未来を告げているわけでなく天気予報みたいな予測。携帯電話にはプライバシーに関わる内容が沢山入っているから、それを落として誰かに拾わせようと誘導する御霊が憑いていたのだろう。モラルハラスメントのA様のような。ただ僕の携帯には毒しか入ってないので、拾って届け出ずに閲覧していた人はかわいそうですね。供養をしてください。




善光寺















熱田神宮


2013年09月22日
半吉

自力がない気力もない鬱状態
人の意見に耳を傾けよ
爭事 人に任せよ



2013年は最も苦しんでいたその記録
「宗教的ハラスメントの実例集」
~レリハラは、教えが隠れ蓑になっている~
自分の通っているお寺は臨済宗妙心寺派の伝統仏教。地元では有名な大きい仏閣。そこの本堂は良いパワーがある感じで霊格も高い。だからこそ、統一教会とか創価学会その他新興宗教よりも異常なレリハラ体験ができた。なぜなら、それら新興宗教とか自己啓発セミナーとか霊能者グループはどこもかしこも霊気がおかしいが、その分信者は馬鹿になってるから。どうみても犯罪になることをし、誰が見ても倫理的にズレてる発言をする。霊性がおかしい分20年もすれば精神科へアデューなのでどうでもよい。でも伝統的な神社仏閣で大きいところは基本的には清くてパワーがある。神仏の度量は深くて、どんな人格をしていても「日本人だから」とか「御子であることには変わりない」という。ということはモラハラ加害者はどんなことをしても奉仕をすれば罪は晴らされプラーナは整えられいつまでも健康で笑いが止まらずにハラスメントができるということ。そして頭が良いままなのでモラハラ・レリハラの段取りや手口は、それが生業となればどんどん深まる。被害者は延々と魂を蝕まれるので他の人の数倍はお経を唱えたり祝詞を唱えたり筋トレをしたり歩いたりヨガやストレッチをしたり参拝時間を長くしなくてはならなくなる。時間を一番大切にしている人であっても。悪代官様は信用が厚いので被害者は耐えるしかない。病気になっても。…それがあなたには可能か?無理だというのなら読んで満足して下さい。自分より悲惨な人がいるんだなと思うと楽になるでしょ。いやいや私なんてもっと酷いですからという方はメールを下さい。合理化したり理解できない方はとりま10回読んでみてください。今世では年齢や立場的に無理な場合は来世では内向型HSPに産まれてモラハラの被害者としてその定めを全うして下さい。宗教団体や信者にとっては都合が悪い場合、レリハラの被害に遭うものが愚痴を垂れようものなら『頭に曇りがかかっているように見える』とか『先祖の因縁があって』等々豊富なプレテクストで説明をつけられる。しかし自分の宗教を肯定するためにレリハラを正当化する人は来世では病気になったのちそういう虐め体質のところに誘導されレリハラの不条理を体験する事になるのが因果応報の順当な流れ。万物は流転する。「あくどい人とのご縁は自身を成長させる」というお釈迦様の教えがあるので、そのダークトライアドという心理学的には「最も悪い・最も危険」と定義される人格者との邂逅は、自身の人格を最大限に成長させるはず。ありがたいことだと思う。

2006年ごろ同志会のイベントのメンバーに入れられる時、名古屋別院の地下で青年会が全員集まっている場で、「この中でイベントのメンバーの人!」とA様に手を上げさせられて、みんな手をあげた。当時青年会にいた内藤君などは意味がわからず他のみんなに合わせて手を上げていた。モラハラのA様に「有馬君もイベントのメンバーじゃないの?」と笑いながら聞かれて、手を上げたら、「有馬君もイベントのメンバーなんだね!」と笑ってメンバーに入れさせられた。意味がわからない。H様もそれを見て「A様はやり手」だと笑っていた。それが原点なので未だに不具合の念が抜けない。いくら「仏様からお役を頂いて」「因縁果たしの場」などと宗教の道理を投げかけられてもその不具合は解決しない。「いつか有馬君も気づいてくれると信じて」いらっしゃるのは結構だが終始そちらの都合でしかない。内藤君は神谷様が青年会に入った時のいきさつなどを本人に聞いて「宗教ってそういうものなんだ」と疑問に思いながらも、しぶしぶと一度か二度、参加してくれたと思ったけど、あの時手を上げたメンバーの中に戸田さんの妹さんもいたけど、イベントの手伝いでは見かけていない。二世の人にも意味がわかってないのかもしれない。勢いよく一気にまくし立てればとりあえずメンバーには入るという手法だろう。警察に届け出したい。しかしそんな感じに簡単にメンバー(信者)が手に入った事に味をしめてしまうと、乗り越えられないものが出てくるだろう。一度味をしめると、その時のように思い通りにならない様になってくると、抑制が効かなくなる。無理矢理入れさせられた人は無条件に侍っていかないといけない。簡単に支配できる相手がハッピーかいの誘いを断ると「あいつは最近どうなっとるだ!」となる。自分の本来の道に戻ったのでは。
モラハラ資料』というサイトの「モラハラ対策、対処法」のページには、既に道具・下僕となっていたら手詰まりなので「逃げるしかない」と書いてあった。伊弉諾尊は黄泉の国の伊邪那美を見て本気で逃げてきた話もひっかかる。正直な人はそうするんだろう。他人の宗教のためにここまで時間を奪われてしまった後だけど、一番初めにイベントの奉仕に出たらいけなかった。

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2013年 少年部キャンプ
A様は相手に言いたい事があるときは強引に一緒に食事に割り込んでくる。夏のキャンプのお昼時、「キャンプは二日目の手伝いは来る?」と訊かれて「来ない」と答えたら「今日で帰るの?」と笑って、「ほんとどうなっとるだ」 と言われた。奉仕をする者はお寺に従事しているから絶対的に正しい、奉仕をしない者はおかしい、という感覚。そしてまた、断る事が選択肢に入ってない誘いを受けた。隣の蛯原君に向って「ねぇ有馬君に仕事させてよ。名古屋別院にぜんぜん来てないよ」 「9月12日は名古屋別院には来れるかな?有馬君は舞踊部の総会の司会だから。これはもう決定してる事。お庫裏様の推薦だよ」。参加しないと言えば「司会じゃ嫌か?じゃどの役割がいい?」「いや参加しません」「なんで参加しないの?」「気が乗らないから」「じゃ気を乗らせてよ(笑)」「10月の○○日は家で修養会だけど来られる?」「秋になったら文化祭ね」と延々と続く。その勧誘が悪意に満ちていてしつこい。「参加しない」と言えば徐々に陰険な目つきになってくる。そして断った相手に対する否定論が始まる。鼻息が一層荒くなる。
通りかかったS原さんを「ちょうどいいところに来た」と呼び止めて一緒に話を聞かせる。ちょうど未婚の年増が来た。都合がいい。S原んは「そんなA様のお話などもったいなくて」と遠慮していたが。
A様によると「名古屋のお庫裏様はこっぴどく叱る人がいて、それには共通するタイプがある」らしい。「なにかわかる?」と質問する。「あ、でもこれ言ったら怒るから言わないでおこ」。そうするとみんなが訊きたがる。彼によるとお庫裏様は「結婚していない人に対して」こっぴどく当たるらしい。その場に居合わせたのは僕と蛯原君とS原さん。答えを訊いて損したと皆顔を見合わせる。これ言ったら怒るから言わないでおこ。A様は未婚者にたいしては完全に上から目線で、意気揚々としている。頬も明るい。お庫裏様や名古屋別院の考え、火の坤神様の教えは人として結婚をする事が前提となっているから、その無条件の勝ち組条件を盾に出来る。万が一こちらがキレてもこちらがアタマおかしいのだから仕方ない。こちらは未発達な人間である。せっかく蛯原君とうどんコーナーで楽しく食事をしていたところ、そのテーブルは隔離病棟のようなものになった。やりたい放題である。

A様が「有馬君も一つ乗り越えなければならない壁があるもんね」としたり顔で言ってきた。その具体的な内容を聞いてみても「ふふん」といった振る舞いで、もうわかってるんだよ という顔で質問を逸らされた。乗り越えなくてはならない壁がある事が嬉しそうに見えたから具体的に何かがあるのだろう。その内容はH様やお庫裏様が下した判断なのだろうな。意見を述べた後「あくまで僕の意見ですよ」と言いながら管長様の意見だった事もある。それにたいして反対の意見を言えば、あの人は管長様の意見にたいして反対の意見を述べた、となる。たしかに言われているとおり「やり手」である。

名古屋のお庫裏様は、その人が結婚していないとこっぴどく当たる。結婚をしている人は「結婚しなければ幸せになれない」説を肯定しやすい。また、ほとんどすべての人は結婚した途端に意見が変わる。お庫裏様の姿を見て、「仏様から見ても、結婚しない者は生きている意味を見いだせていない」という考えに走る。「既婚」と「未婚」では人としての扱いが変わる。結婚して二世を連れてくる信者と二世を連れてこれない信者で、天と地の格差になる。
A様は「お薬師様がいうには、結婚ができない人というのはなんらかの深い因縁があってできないらしい」と嬉しそうに話していた。2010年、恋愛で苦しんでいたので夏に東京の神道の先生のところまで行って「なぜ自分はショタなんですか?」と聞いてみた。先生が神様におうかがいを立てたところ、「カルマ(先祖の因縁等)ではない」との回答。「なんらかの意味があってそう産まれてきている」。A様の薄暗い願望によると「家相を知らないから」とか「先祖に深い因縁があるから」とか「僕自身に何らかの因縁がある」から結婚出来ない。そう強く念を押されている(ほとんど呪詛である)。果たしてお薬師様も同じ判断を下されたのだろうか。人は自分の思い込みと願望で他人に審判を下している。(もちろん悪因縁の無い人間などいないが。生きている限り食べなくてはならないし車に乗っている)。
また、以前関わっていたカルト宗教(統一協会)の信者は、それはサタンの為すところだから懺悔してメシアを信仰すればいつかは治る(神は唯一でありそれを証す事の出来た文鮮明を信仰すればその唯一絶対の神に通じて元通りになる)と考え、蕩減復帰の道(原罪を持つ人間が、元の姿に帰っていく道)を勧めてきた。しかし逸脱した指向性は、そもそも無条件に悪なのか?人の道から外れたことなのだろうか?WHOや日本精神神経学会によるとそれは「正常なこと」である。また、宗教団体が性指向等を矯正する事はWHOに禁止されている。自殺者が続出した事が原因のようだ。信者は「同性愛すらも治るのよ」と言っていたが、知立メンタルクリニックの医者によると性指向は一生変わらないとのこと。東京の先生によると「同性愛等が罪になるかならないかでは、神様によると、ならないが、霊性的には神仏の導く方向性からは後退する」とのこと。「でも(後退するといっても) そんなにひどくない」らしい。結婚しても夫婦でいがみ合っている方が遙かに罪が深いとも言われた。家が浄土真宗だから調べると、浄土真宗では独り者でも幸せになれるように阿弥陀如来様が存在しているとのこと。
僕が「僕は結婚ができないから先祖に因縁がある」と認識していないとA様は不愉快なご様子である。相手が絶対にその審判を受け入れない限り気が済まない。欲から生まれた審判だし、心の中で何度もおいしく反芻しているうちに既成事実と化した事だから、相手が事実として受け入れない限り成り立たなくなっている。彼は心でこき下ろしている相手が自分のドグマに沿ってそう素直に自覚しないとき、目つきがおかしい。既に目の周囲は黒ずんでいて、糾弾する手立ての豊富な舅やお姑や企業の役員の目つきである。その非人間的な目の中をじっくりと視るのは、その人間の被害者ぐらいだろう。A様に教えを説かれて自分の目が輝く事はなかった。そういう人が仮にいたとしてもお薬師様の方しか見えていない信者の方だけである。お薬師様でつながっている。A様の教えでつながっているわけではない。みな、A様の攻撃的で差別的な念や考えを受けて、まぶたが下に降りている。落ち度を指摘するような、相手にとって都合が悪い教えを説こうとする。それは自分が悪者になってその人のために説いているのではない。相手の苦しむ顔を見たいだけである。蛯原君は、有馬君も大変ね、と苦笑いをしていた。

「名古屋のお庫裏様はこっぴどく叱る人がいて、それには共通するタイプがある」・・・もう一つ共通するのは、同じ事を他人にたいして言っている人らしい。「昨日舞踊部でお庫裏様に『もう来なくていい』とこっぴどく叱られた女性信者がいたが、その人は他所で『もう来なくていい』と言っているから自分も言われるのだ」と。愉快そうだった。

夜になり肝試しの準備をしていると、A様は肝試しのサポーターにたいして怒鳴り散らしていた。僕がA様に敬意を払って彼のレッテル貼りを素直に受け入れていないからだろう(でも魔の言っている事に頷首すると神様仏様を裏切ることになるし、状況は一層悪化する)。サポーターが仲良くなり出して"きゃーきゃー"やっているのを見て、「もう帰れ!!」と怒鳴り散らす。それは仏様のためにではない。管長様の真似事をして正義面をしてみても根底にあるものが違う。その場にいた蛯原君は「またこの人か」と苦笑していた。
A様は昔から子供が嫌いであった。小学校のソフトボール大会の監督をやっていた時も、自分の言う通りのフォームで打てない子を泣かせていた(でもその子の方が上手い。少年野球をやっているから指導を受けている)。またある日は、A様宅の前を通りがかると中から長女?が走って逃げていった。隣の人が「危ないから逃げなさい!」等と僕に言ってきた。なにがあったのでしょうかね。
キャンプのお手伝いに来てくれた中高生や学生の無秩序が許せないのは器質的に仕方の無い部分でもある。しかし我を持たず仏頂面で奉仕をする事が理想なのだろうか。悪い想い出しか残らない。王子会館二階には門弟様やお寺の信者のサポーターはいなかった。みんな子供達とキャンプファイヤーをやっている。なぜそんな時に、A様はそこに上って来ているのか。「もうやめろ!!」「帰れ!!」 そうお化け役のサポーターたちに怒鳴っていた。「悪ふざけをしている。あれでは仏様に無礼である」「有馬君が奉仕とは何かをしっかりと教え込んでいないからあんなにきゃーきゃー遊んでふざけている」等の大義名分からだろうか。たしかにそこは人様の敷地内だが。帰り際、塗装業の加藤さん(Tさんの友人)に「来年もまたよろしくね」と声をかけたら「来年はもうない」と返事が来た。蛯原君もこの日以来、ほぼ音信不通。
A様は「もう帰れ!!」と怒鳴り散らしていたが、お庫裏様には「もう来なくていい!」と言われることはないだろう。結婚しているし男性だから。

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青年部OBの佐藤様から電話があった。僕は丸一同志会の知立の幹事になっていたようで、土曜日に岡崎本堂に集まる事が出来るか聞かれた。一言も聞いていない。裏で勝手に「地区の幹事」に登録されている。そういう事をさせたい。その丸一同志会の知立の幹事に登録されたのが2013年の8月頃だとすると (誰が許可を取ってきたのかが記録になくてわからないらしい)、モラハラのA様に勝手に登録されている可能性が高い。その頃、舞踊部総会の司会の奉仕を二度断ったから。しかし別の機会でA様も登録されたらしい。本人に許可なく勝手に名簿にあがる事例にたいし「え!?私もですよ」。バレそうになったから自作自演だろうか、他人もやっているという安心感とともに言っているのだろうか。職場のロッカーから財布のお金を引き抜いている水嶋君(社員)も同じ盗難被害に遭っていた。「僕もお金を盗まれましたよ」と仲間に打ち明けている。「びっくりしましたよ」。
いつも誘いを断ると豹変する。幽霊と同じぐらいの存在でしかない相手が「意志を持っている」という事になると受け入れがたい。勝手に役職に就けておいて、それを断ったら急に障りが増してくる。それがおかしい。丸一同志会を辞めたら創価学会のように「あのご家庭は」と延々とレッテルを貼られる事だろう。統一協会を辞めた時は僕は霊障で死にかけた。「メシアの名前を証された者は悪魔に狙われる」「いつまでですか?」「この先ずっとよ」との事だが、逆に神との関わりを断ったら悪魔には敵対視されないだろう。不運で死にかけるのは縁者が自作自演で裏切り者を奈落に突き落としているからだと思う。自分の先生にもそう判断された。

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ハッピーかいの勉強会にて、根拠を話させるためかお薬師様のみくじの体験談を話させたら、一人耐えきれずにその場から去った参加者がいた。信じることを強要されると思ったのだろう。巨人ファンに中日や広島の良さを説いても通じないのと同じで、それは共有できない。
「根拠があれば信じる」と言ってる無神論者も、根拠があっても信仰まではしない。誰にでも目に見える形で神仏の実在を示せたら信じてやると言う人も、信じてはくれるかもしれないが信仰はしない(ファンにはならない)。やはり不治の病になって苦しむか戦争でも起きて自分から縋らない限り、信仰者にはならないと思う。自分もそうだし東京にいる頃にお世話になった神道の先生も線維筋痛症で苦しんだらしい(その人の導きがあって一畑山薬師寺に行くようになった)(さらに、その人の神道の師匠も30歳まで病床に伏せていたようだ)(さらにお薬師様も30歳まで病床に伏せていたとご仏説で聞いた)。まず自分が感じる事に重きを置かなくてはならないと思う。

自分の命や行為を無駄にしないように手向けるのが利他行。とだけ聞くと高潔だが、どんな教えもレリハラに利用可。
幼少期における攻撃性が残留していると、大人になってから屈折して出てくる。

布教をすることと同調圧力は違う。教条主義に雁字搦めの信仰を押し付けられ、更にこちらの意志や存在を否定するような障りによって鬱になった。こちらは底辺の飼い犬なのだろうか。

近所に住むA様はご霊泉で耳打ちをしながら「お寺では誰々が力があって」云々と信者の格付けの話が終わらない。そのラベリングは正しいのだろうか。人の形を自分の願望に沿って変えることはその人の我の強さに基づくものだろう。世の中にはそういう人間が多いから、「自分は自分である」だとか、「じぶんいろ」を失ったらいけないという歌詞の歌が多いのだろう。中学時代には理解できていなかった。そういうのをオーセンティシティというらしい。たぶん誰も 至高の神様仏様に自分を変えられることを拒んでいるわけではない。人間レベルの信者の差し止めを喰らっているから神社仏閣に訪れなくなるのかもしれない。

神仏が実在する根拠を追い求めたり、教えを言い聞かせたくなるようになるのは信仰ではないかもしれない。お寺の大祭などで法話を聴いても、純粋に自分のことに照らすことはなく、「あいつにはわからないだろう」と考えながら聞いている人がいる。そして勝手に怒り狂ってる。教えの解釈や受け止め方も100人いれば100通りだが。その後は政治的な意志表明を繰り返す。

いかにも楽しい催しがあるように誘われてもそこまで楽しいことはまずない。僕はその催しが楽しかろうがつまらなかろうが神社仏閣の霊気が好きなのでそこの信者から次々に誘いが来なければそれだけで良い。自分は境内の外に出て活動をする事にメリットを感じない。体質なんだろうけどデメリットを感じる。メリットデメリットとかいう意識を捨てなくてはならない、という教えも怖いな。モラハラ色をした集団に都合のいいように動かされそうで。

2007年の若者のつどいの時、前日までなぜか僕は殺気立っていた。宗教がむかついて仕方なかった。統一教会の被害に遭った経験がある僕は、所謂信者が嫌いで、霊性で仏様がわかっているわけでもないし自分の力で発見されたわけでもないのに信仰を説いたり、教えに伏させるために信者が言いたい事を持参して寄ってくると苦痛で、その後一週間は殺気立っている。なぜ青年のつどいの週はあそこまで殺気立っていたのかと思い返すに、普段見たことない二世の人が来ていたからだと思う。そのとき一度しか見たことがない。30前後の男。その人は宗教にたいして怒りをためこんでいた。
その日の講師様はR子様で、若い頃の話や殺人鬼に憑依された時の話などは、今までで聞いたことのあるお話の中で一番というぐらいインパクトがあった。実体験はすごい。けれど、その二世の人には通じてなかった。話のあとの談話でその人は「会社などでは検証を繰り返し医療では二重盲検を通過したもののみが売り出されるけど宗教ではそれがない」等々と言っていた。R子様はなにかを察してか「親に無理やり信仰を押し付けられてなかった?」と宥めていた。朝にはご祈祷も受けたしお寺の霊気に包まれてかその人はだいぶと抑制をして話されていたけど日頃は宗教にたいして殺気立っているに違いないと思った。その人の生き霊との相乗効果で僕はあそこまで殺気立っていたのだと思う。

先日、政治的な意図でもって寄ってくるあの人(モラハラのA様)は、お寺に来れない人には何らかの問題がある とでも考えていそうだった。むかついているのか血管が浮き出て顔の血色が褪せていた。僕は急にコーラスの集まりに行けないとなった時には身辺の不浄が消えた。神気に包まれたので守護が入ったのだと思う。その神気を疑ったらいけないと思う。

正直に言える人がいない。

自然環境の問題に関してみんなが考えてくれるよう願っていたら2007年頃に講演会など開いていただいた。そのときは有り難かった。自然や環境問題をみんなが考えるようになってくれれば自分はこの中で生きやすくなると思った。けれど誰もたいして環境問題を気にしていなかった。あたりまえか。でも、自分は環境問題のことを勧められても価値観に変化なし、ならば、他人に一畑の信仰生活を勧めてその人に変化がなくても不満を抱いてはいけない。
お互い優先順位が異なる。ケーブルをまたぐ事は長物様の無礼にあたるからまたいではならない。でも自然環境を破壊することは自然を殺害する事になる。アスファルトを敷けばセミは土から外に出られなくなる。こちらの価値観から見ると、お寺の教えは恭しく守っているのに自然環境を破壊していて平然としているようではそれはどうなのかと思う。

あの人(A様)に、言い逃れできるような嫌味を言われる。

強引に「仏縁」にもってかれるが、それを仏縁だとどうやって断じているのだろう。仏縁と断じておいて、神様のご縁だったらどうするのだろう。押し付ければ押し付けるほど仏敵を育て上げると思う。神様方面からクレームがついたとして、神様方面を敵対視すれば、創価学会と同じ道を進むと思う。見えていないところで信者はなにかやらかしている。

奉賛会員2万人を目指す…同調できない。人集めにおいて、なにか新しい行事をするではなく、マイナスの要素を減らした方が早いと思う。悪いことをすれば埋め合わせが生じるし、よいことをすれば寄ってくる、結局はプラスマイナス0の地点に至る。ネガティブな想いが1あると、ポジティブな想いが7必要。人を殺すレベルのあくどい信者が1人いたら30人~80人くらいの損失になっていると思う。

名古屋別院のコーラスから帰るとなぜかよく鬱症状になってしばし布団に伏していた。

悪代官のモラハラA様60歳前後はこちらがなにもわかっていないものとして接してくる。こちらが解っていない者として、いろいろな価値を押し付ける。その価値に反応を示さないからより圧力をかけるようになってきた。いつの間にやらお舅様のような態度が常態化している。そのA様は山門から一歩外に出たら別の人格になる。車を運転すると人格が現れるもので、前に入ろうとする車がいると「なんでこの車は入ろうとしているの?」と高圧的で陰険な態度で絶対に入らせない。たまに雄たけびをする。そういう変な人格した人とのご縁は要らない。縁切りの寺なのになぜそういうものを拾うのか。自分は身代わり地蔵なのだろうか。
そのA様は人の不幸を笑う。僕が友遊会に出ないから風呂場で好みを聞かれて「10代が好き」だと言ったら近くにいた名倉さんを呼んで「おーい、もう30代なのに10代が好きなんだってー」と言われた。その言い方がおかしい。性指向は変えられるものなら変えたい。でも性自認から20年間、小学生の頃から努力してきたし、たびたび願もかけたけど変わらなかった。レリハラお代官様A様に言ったからには噂はすべての人に行き渡っていることと思う。
「結婚はしたいけど結婚できない」と言ったら最近の人は結婚願望がないことを何も考えていないことと成し、「国の力が衰微する」という反応をされた。人間をモノとしか見ていない。人集めの材料としての扱いが常態化している。行事にぼわれ過ぎると、乗っている車や社会的な地位で人を判断する人は、より一層即物的な成果主義になる。表向きには好々爺だけど形ばかりで中に善良なものがない。お前のために誘ってやってるのになぜ感謝を受けないのだろうという態度。こちらは迷惑でしかない。この前もコーラスの何らかの集まりに強引に誘われた。断る余地はなかった。断ったら急に態度が陰険になる。3回断ったが結局行く羽目になり、当日案の定参加できず、後日「有馬君は来れると思っていたんだけどねぇ。(自営業の仕事は暇だから)」と言われた。(2012年頃)

そのA様は演歌のこぶしを効かせたようなお経を唱える。それが下品でなければよいが。声がこちらの耳に入ってくるが、相手をねじ伏せてやろうという何かを感じることがある。天狗のような。全体と一体になることをせず自分を主張している。

人になにかを勧めるのなら、人からもなにかを勧められないといけない。フェアじゃない。
なにかを勧められても不愉快を感じない人はいるんだろうか。なにかを勧められて喜んで乗ってくる人は見たことがほとんどない。そのノリの良さも社会性の高さなのかもしれない。新しく来た人も、周りは信者ばかりだから表向きに笑顔で「良かった」と言ってくれてるだけのような気がする。捕食されないよう合わせてるだけ。なぜそのみんなの噂の喜んでくれているお方は、二回目、三回目と訪れないのか。

こちらがあの人に会いたいと思っていたらその人はなぜか来てくれるけど最近来なくなったのは勧誘されるからかもしれない。勧誘も、その人にまた会いたいからやっているのなら良いけど、自分の宗教に同調してほしいとか、人集めのタゲにする人の邪気は拒まれると思う。

人間の器では他の人間を容れる事は出来ないので、信者は信者であって神仏ではないという事を新しく来た人に伝えておかないと、窮屈な思いをさせる事になる。

新しい人が来やすい雰囲気を持たせるために「一期一会」の文字をポスターに挿入しても良いかもしれない。その場合、勧誘は控えなければならなくなるが。

出会い目的で来た人には期待しない方がいい。素直なのは表面的なもの。秋田Y子さんからは表向きとは違う色んな話を聞いている。友遊会に来た男性が「てらこん」で何をするかの会議に参加していた。闊達に積極的に意見を述べるその姿を見て、R子様は「あなたはすごくいいものを持っているよ」と何度も褒め称えていた。でもその男性は後日(中略)、Yさんには「元々そういう気はない」という返事が来たらしい。お寺とか宗教に関しても元々そういう気はないとはっきり言われたとのこと。

幼児に「回転ずしは何個たべられる?」と質問すると男の子は自分が一番一番という風に答える。女の子は周りを見てみんなと同じような答え方をする。そのような原型がある。クラシックを聴く人はテストステロンが少ないけど、ふつう男性はなかなか自分より偉いものには従わないらしい。よほどのことがない限り。なんで青年会のメンバーが増えないのがこちらのせいになるのかがわからない。知恵袋で聞いても、それはおかしい、その宗教団体やめたほうがいいとの意見しかない。そもそもなんで自分の時間を投げ捨ててまで青年会に入らなくてはならないのか。「身代わり地蔵になれば鍛えられるから」という理由なら納得できる。

パワースポットブームともあり祈祷を受けにくる人は増加傾向にあるが、奉仕をする人は減少傾向らしい。今の人は核家族化もあり宗教にたいしても「一人で」接したがる人が多そう(宗教団体に否定的なスピリチュアルの思想が受け入れられやすい等)。核家族育ちだと頭が固そうだが、自分だけの世界観を壊されたくないというオーセンティシティは持ち合わせているかもしれない(完全に偏見)。

内藤君は「お寺らしい事はなにもしないんですね」と言っていた。疑問に思っていたのか、しんちゃんに「なんで青年会に入ったのですか?」と聞いて、「問答無用でいつの間にか入れさせられてた」と笑って答えていたけど、内藤君の顔は引きつっていた。自分もそうだけど二世の真似ができない。

長く続く人は御利益ではない。ハッピーかい○○さん談。「こんなにやってるのだから○○だろう」と期待をしている人はやめていく。成果主義も駄目であるようだ。長く続く人は信仰を持っている。自身を修養するためなのが理想的。でも、自分を修養する志は薄くとも仏様の力をいただいて○○をする(例えば心身健康や病気平癒、霊障を祓い清める等)という目的があり、その功徳を「実感」していれば、宗教的な道理にはかなっているのかな?自分には信仰は難しい。

二世の人が結婚していき、青年会の数も減っている。でもまるで今の青年会の人の集まりが悪いのは僕のせいだという風になっている。青年会を「わーっと引っ張る人がいないから」らしい。人付き合いがストレスでしかない「内向型」の人間は存在したらいけないのだろうか。外向型となって社交的になることが「成長」だと勘違いしやすいが心理学的にはその考えは誤りらしい。脳の働き方が違うらしい。心を開くことは成長だが、その反面、心の問題に鈍感になることは自分にとっては退化である。お釈迦様は外向型か内向型で分類したら、どう考えても内向型/HSPだったと思う。

2013/08/24
名古屋別院にコーラスの総会に行くと、なにかの因縁を拾っていたようで、帰ると鬱になった。延々とため息が出てくる。多分この前のキャンプの昼時、A様の「名古屋のお庫裏様はこっぴどく叱る人がいる。それにはパターンがあるけど、どんな人にこっぴどく当たるかわかるかな?」といった問いかけに「自分に従うか否かで変わる」と僕が答えたからだと思う。自分に従うか否か。僕の神道の先生は「神仏は自分の言いつけを守れるかどうか確かめているところがある」と言っていた。実際、お庫裏様は自分が渡した派手な帽子をその人が被ってくれるかどうか襖の奥から目を光らせている事がある。言いつけを守れないと神仏の意図する方向に導くことはできない。だから「お前はわかってない!」とこっぴどく当たる。…といった方向に展開される事は無い。お庫裏様は自分に従わない者にはこっぴどく当たるのだと有馬君がおっしゃってみえる事を大問題視して言いふるめられているのが目に見えてくる。なぜ名古屋別院に行くと元気を失うのか。あんなに生き霊を拾うのか。
信者は「あの人はあんな事言ってましたよ」と言われたら「そういえばあの人からは不浄を感じるのですよね。きっとなにかがあるのだろう」と後付けの理由で判断することがある。人間に興味が強いからなのか、宗教の人は一般の人以上に噂話に憑依されている。それを疑えない。

2013/08/25
ハッピーかいの講師様の話が「因縁」に関してだった。
因縁の話になるとレリハラお代官様は僕に「先祖の悪い因縁があって結婚できない」と念を押してくる。瘴気しか感じない。仏様の意志とは無関係だろう。兄弟は結婚しているけど長男だからだろうか?なんとでも言えてしまう。お寺に行くと他人の悪い因縁を背負う。
あとは僕がいろいろな神社仏閣に行くことを牽制してきた。いろんな神社仏閣に行ったらいけない。なぜなら「知らず知らずのうちに願をかけている」「神様仏様の因縁が出てくる」。脅しを使って信者を引き留めようとするのは、どこからの意志なのか。相手を追い詰める事は興奮する事である(サイコパスにとっては)。「囲い込み」をされると防衛反応が出てくる。そういう修行なんだろうか。
その日は帰ってから寝込んだ。神様仏様が人に罰を与えないのなら、辞めていった人が不幸になるのは生き霊の障りだろう。お寺には人の生き霊を背負って寝込むために行っている。何事もなく無事に帰れる事が少ない。
レリハラを忘れたい人は、レリハラについて考える必要がある。「人間は、何かを考えないように努力すればするほど、却ってその事が頭から離れなくなる。考えないという目標達成のためには考える必要がある」(ダニエルウェグナー『皮肉過程理論』・・・通称シロクマ実験)。
あと、怒りは悪いこととされるが、「怒り続ける経験」は心の奥底にあり見えないものを顕在化させるために、利用価値があるっぽい。人間はどうしても死への恐れとか、社会的にいい子であり続けるために怒りや怨恨を、無意識のうちに潜在化させている(インナーチャイルドの働き)。…なぜ恐れるのか、怒るのか。意識の上にあるものなら説明できる。でも『懺悔文』には「私が昔からなしてきた様々な悪しき行いは、すべて始まりもない太古からの貪りと怒りと愚かさを原因として、身体と言葉と心によってなされたものである。」(法楽寺の現代語訳)と書いてある。怒りの実体は、本当はそんなにわかりやすいものでもないようだ。『修証義』には「生を明らめ、死を明らむるは、仏家一大事の因縁なり」と書かれてる。それってそんな仰々しいテーマなのか?と、お経を読んではじめは思うかもしれない。しかし、死ぬまで自分の怒りの本当の理由がわからない(明らめられない)人がほとんどらしい(まして生死なんて)。甥っ子を見ていても思う。本人の記憶のないうちに、怒りを大人に理解されず、昇華されずに押し込められている。自分も同様に、記憶のないうちに人格は形成されていたのだろう。仏教には「脚下照顧」という言葉がある。他人のことをとやかく言う前に自分の足下を見よ。 ― なぜ、私はそれを怒るのか ― 自分にはわかる日がくるのかな。。



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